フィリピン語学留学出発の朝、あわてて支度を終えたぼくは玄関口に立った。
“死ぬかもしれない”。
夜明けまで現地の治安情報を調べまくっていたせいで、ヒロイックな気分になっていたのだろう。
「じゃあな……無事にまた会おう」
弟にそう言い残し、家を出た。
恥ずかしくて死にたい。
目次
LCCやばい
「実質2時間しか寝てないから辛いわー」と大学生がよくやる三大自慢のひとつをやりつつ成田空港を目指す。
ちなみにあと二つは「勉強していない自慢」と「二日酔いして辛い自慢」である。
特に面白い事件も起きないままチェックインがすみ、ジェットスターの航空機に乗り4時間半の空の旅へ。
前方の席には叫ばないと人質の命はないと脅された者のごとく騒ぎたてる子供に、隣の席にはイヤホンを耳に突っ込み大音量で演歌を歌いだすおじさんがいた。
空の無法地帯、LCC。
無駄にコブシがきいてて上手いおじさんの演歌を聞かされ、乱気流にでも会わないかなーと思いつつ時は過ぎていった。
え?廃墟?
やっと着いたのは南国フィリピンの首都マニラ。
ニノイ・アキノ空港、第1ターミナル。
日本との時差は-1時間。
夕暮れ時の空港はさぞや叙情的だろうと思い進んでいくが、どうも様子がおかしい。
なんだろう。
まずボロい。
いや、朽ちていると言った方が近い。
壁や床や天井はもちろん、電光掲示板からバゲージクレーム(預けた荷物が回ってくるあのベルトコンベアらしき装置)まで何もかもが古い。
日本だったら即改修レベル。
がらんとして人がいない雰囲気もあわせると、世紀末感あふれる風情である。
そして職員がテキトー。
税関なんて一人も荷物を検査されず完全スルー。
そもそもこっちを見てすらいない。
なんならスマホいじってる人もいる。
だ、大丈夫なのか?
「空港」というよりは「かつて空港だったもの」と定義した方がすんなりくる第1ターミナルを後にし、国内線に乗り換えるため第3ターミナルを目指すのだった。
1stショック
タクシーとぼったくり
フィリピンでまず第一に気をつけるべきなのは、食べ物にアタることでも銃撃戦に巻き込まれることでもない。
ぼったくりだ。
とにかく日本人がフィリピンに行くとぼったくられる。
ジプニーで、バイクで、現地ツアーの申し込みで、値段のない土産物店で。
フィリピンは物価が日本の数分の一であるため、日本人が現地に行くとほぼ全員がお金持ちの状態になる。
そして、「裕福」かつ他人に対し遠慮してしまう日本人は、現地の人にとって絶好のカモなのである。
大切なのは、事前に相場を調べること、それを元に値段交渉することである。
タクシーも当然のようにぼったくってくる。
ターミナル間を移動する必要性が高く、タクシーの利用率が高いマニラの空港ではなおさらである。
白タクシーは安いが色々と危ない。
イエロータクシーはそこそこ高いがそこそこ安全。
空港にしかないがエアポートタクシーはとても高価だがとても安全。
ちなみに白タクシーの初乗り運賃は40ペソ、約80円。
安い。
フィリピンでタクシーに乗ってみる
さて、ぼくは生粋の臆病者である。
空港から出るだけでも大変な勇気を要したが、とにかくイエロータクシーに乗ってみた。
「荷物はトランクに入れるな」「とにかく全部手元に置いて乗れ」といった先人の知恵を実践しつつ、第3ターミナルまで行きたいので”I would like to go to the Third Airport.”と言ってみた。
怪訝そうな顔で首を振る運転手。
え。通じてない?
もしかして発音が悪かったか。「”Third Airport”(サード・エアポート)」
もう1回。「サード・エアポート!」
やはり通じない。
そうしている間にもどんどん車は進んでいく。
いや行き先も告げていないのにどこに向かっているんだよ。
あり得ない速度で上がっていくメーター。
あああもっと発音勉強しておけばよかった!
あたふたしながら半泣きで思いついた言葉をしゃべりまくる。
英語がしゃべれない二十代の男の半狂乱な様子など見ていて気持ちの良いものではないからだろう、あいかわらず運転手はしかめ面だった。
もうダメだ。
帰ったほうがいいのかもしれない。
生まれてこなければよかった。
がむしゃらに次々思いつく言葉を叫んでいると、「セブ・パシフィック!」という次に乗るべき航空会社名が出てきた。
それを聞いた運転手は我が意を得たとばかり「ああ、Terminal Threeね!」という意味の言葉をしゃべった。
ああそうか、”Terminal 3″(ターミナル・スリー)って言えば良かったのか。
発音以前の問題だった。
恥ずかしすぎる。
どっと疲れたがとにかくこれで行けそうだ。
まともな文章はおろか、場所の単語ひとつすらロクに言えない……。
自身の英語力の低さに愕然としているうちに車の列は進んでいった。
コミュニケーションは力だ
2回目のタクシー
1時間の空の旅を終え着いたのはマクタン・セブ空港。
ようやく初日の目的地セブ島に辿り着いた。
しかしまだ終わりではない。
空港のあるマクタン島からセブ島市内のホテルへの移動が残っている。
時刻は21時にさしかかっていた。
1日中気を張っていたせいか、ここにきて妙な具合に意識が緩み、「いや俺なら白タクシーでも余裕だ!」と夜明け前の雀荘で役満を張ったとき並のハイテンションっぷりで列に並んだ。
繰り返すが、フィリピンにおいて白タクシーはぼったくりの温床である。
幼稚園児レベルの英語すら話せなかった数時間前の悲劇は忘れることにした。
マニラの空港ではややぼったくられた感があったので、今度は乗る前に値段交渉をしてみる。
事前に調べておいた情報によると、空港からセブシティーまでの相場は250ペソ程度らしい。
“○○ホテル、250 peso, OK?”と小学生にも鼻で笑われそうな英語(250を”トゥーハンドレッド・フィフティ”ではなく”トゥー! ファイブ! ゼロ!”でゴリ押し)で聞いてみると、返ってきた返事は”OK, sir.”
うおお通じた!
これは嬉しい。
従来の学校教育型の英語しかやってこなかったぼくにとって、英語は「試験に受かるための苦しい教科」でしかなかった。
だがこの瞬間、英語とは「異なる言語を話す2人にコミュニケーションを可能とさせるツール」なのだと気づいた。
よく「英語はコミュニケーションツールである」「伝わることが大事」と言われる。
今まではピンと来なかった。
だけど、一歩海外に出てみると分かった。
全く違う国の人間同士が、意思疎通できる。
これはすさまじく面白いことだ。
本当に、面白い。
コミュニケーションツールとしての英語
ホテルに着くまでの数十分間、運転手との会話を楽しんだ。
と言ってもぼくは「あなたは何歳?」とか「それは何?」とか本当に簡単な質問をするだけである。
それでも、彼が20歳であること、セブのタクシードライバーはみんな運転席に十字架をかけていること、セブにはカトリック教徒が多いこと、などは何となく分かった。
異郷の地で、人種も文化背景も何もかもが違う相手の言いたいことが分かるというのは、ぞくぞくするくらい面白いものだ。
さらに興味深いことに、彼の英語はだいぶ『正しくなかった』。
慣れてくると分かってきたが、だいぶ発音が怪しいし、文法だってけっこうめちゃくちゃだ。
英語の会話がしにくいのは、全部ぼくのせいというワケではなかったのかも、とちょっとほっとした。
まぁかくいうぼくの英語力は論外なくらい低レベルなのだが、英語が苦手な者同士、ちゃんとした文以前のむきだしの単語をぶつけていくスタイルで何とかコミュニケーションが取れた。
日本でやったら英語教師が卒倒しそうな水準の会話だったが、たとえ2割でも自分の言いたいことが伝わって、相手の言いたいことが分かったのが何よりも嬉しかった。
そう、伝わればいいのだ!
正しかろうが正しくなかろうが、とりあえず伝わればいい!
間違えだらけでもいい。
とにかくしゃべってればいつか伝わるのだ。
「英語は間違えてもいい」という事実に気づき、ぼくは少なからず感動を覚えた。
日本にいたら誰もが感じる「カンペキに正確でなければいけない」という空気は、ここには存在しない。
英語勉強のハードルが一気に下がった気がした。
最初からパーフェクトを求めなくてもいいんだ。
ひとつずつやっていこう。
日本より遥かに街灯が少なく、でこぼこした道を走りつつ、長い1日の終わりが近づいていることを予感した。
今日は、気持ちよく眠れそうだ。
まだだ!まだ終わらんよ!
本日のホテル、シンファンデル・スイーツ
目的のホテルに到着すると、どっと眠気が押し寄せてきた。
ラフな格好の係員がドアを開けてくれるのを見て、何かセレブにでもなったかのような錯覚を受けてエントランスに入った。
Cinfandel Suites
M.L.Quezon Street, Mandaue City, Cebu, フィリピン
ドヤ顔チェックイン
ふふふ、チェックインの英語だけはカンペキに覚えてきた。
さぁ驚くがいい。この完璧な英語力に!
“I have a reservation. I’d like to check in. My name is sist8.”(予約していた者です。チェックインをお願いします。私の名前はsist8です。)
すると受付の人は怪訝そうな面持ちに。
あ、あれ? 通じなかったのかな?
もう一度繰り返してみる。
が、やはりダメ。
すると「我々はあなたの予約を受けておりません」といった意味の英語が返ってきた。
な、何ィィィィィッ!
バカな、きちんとWebサイトで予約したはずだ。
一体どうして……。
あたふたしていると、受付の人は一枚の紙を出してきた。
名前と年齢を書けということらしい。
「一泊1,000ペソです」とも言われた。
フォームに記入し、一泊分の料金1,000ペソ(2,000円)を払ったら、「ではお部屋にご案内いたします」と荷物を持ってくれた。
あっという間に「予約無し」でのチェックインが済んでしまった。
2時間ほど文面を推敲してドヤ顔で出した予約メールとは何だったのか。
考えないようにしよう。
ドントストップミュージック
部屋は割と広く、ベッドもそこそこ大きかった。
とにかく眠かったので、シャワーだけ浴びてすぐさま寝ることにした。
エコをコンセプトにしたのかユニットバスのシャワーの湯量は異様に少なく、何だか臭いも少々ついていたが無我の境地に達することで事なきを得た。
大通り沿いにあるホテルのため車の音がやや騒がしかったが、問題のないレベルである。
寝支度は整えた。さぁ寝よう。
冷房を入れた。
ブオオオオオオオオオオン
冷房を止めた。
な、なんだ今の爆音は。
恐る恐るもう一度つけてみる。
やはり爆音。
冷たい風が出ていることから、恐らくこれが冷房である事は間違いない。
だが、あまりにも音がでかすぎる。
回っているのは発電機なのではないかという予想を立てつつも、とにかく頑張って眠ることにした。
色々ありすぎて疲れた1日だった。
果たしてぼくの英語力が上がる日は来るのだろうか。
不安に思いつつ、フィリピンで迎える初めての夜は更けていった。