モアルボアル。
フィリピンはセブ島の端に位置する海岸沿いの町。
華やかではないが、静かで穏やかな雰囲気に包まれたリゾート地。
その牧歌的な空気の中に潜む後悔と挫折の棘はしかし、己が姿を衆目に晒すことはない。
浮いたり沈んだりの素人ダイバー日記、はっじまーるよー。
モアルボアルの町並み
モアルボアルの町を散歩してみる。
時期は8月下旬。
一応リゾート地と聞いてはいたのだが、異様なほど人が少ない。
リゾートというのは、もっとこう、照りつける太陽と焼けつくようなビーチが有ってサングラスをかけた美男美女がソファーとベッドの中間みたいな場所に寝転がり何やらトロピカルなグラスでトロピカルなジュースをトロピカルストローで飲みつつ帽子をくいっと上げて「ふふ、そろそろ泳がない?」「いいね」ザッパーンみたいな光景が見られる場所ではなかっただろうか。
なんというか、モアルボアルはかなり田舎めいている。
賑わっている地区から少し離れると家がぽつんぽつんと立っているくらいである。
わりと寂れた雰囲気がどことなく不安にさせる。
賑わっている地区に足を向けると、ホテルやバーの密集地帯に出くわす。
ただ、ホテルやバーといってもどちらかというと異国情緒のある旅館や居酒屋と行った方がいい雰囲気で、何となく「千と千尋の神隠し」の湯屋の世界を彷彿とさせる。
まだ昼前ということもあってか、飲み屋が並ぶ界隈はかなり閑散としている。
ここは本当にリゾート地なのかと一瞬不安になる。
観光客をたまに見かける程度だ。
パシャパシャと写真を撮りながらぶらぶらと歩いて行った。
格安の理由
さて、遅れて合流するサトウくんはまだ来ていないが、彼に前もってバスターミナルからホテルまでの足代の相場を伝えておく必要がある。
適正値段を教えておかなければ、ぼったくられる可能性があるからだ。
先ほどカミヤマさんの交渉力のおかげで妥当額50ペソをSMSで伝える。
数十分後、サトウくんがホテルに着いた。
相場を教えてもらったのでぼったくられずに済んだとのこと。
やはり事前交渉は何よりも大事なのだ。
カミヤマさんはまだ起き上がれそうにないので、サトウくんと2人で昼食をとることにする。
ホテルのすぐ近くに出ていた屋台で25ペソ(約60円)のミートソーススパゲティを食べる。
安いことは正義である。
特に味に問題はないように思われた。
この時は。
近場のダイビングショップへ行き、ダイビングをしたいと申し込む。
14時からでないと空いてないということなので、一度ホテルに戻って時間を潰そうということになった。
ちなみにこの時店内にいた観光客と思しき欧米人が「ヤバい、ダイビングライセンス忘れてきちゃった!」と言っていたがオーナーが「大丈夫、大丈夫」とサムズアップして潜らせてあげるよと言っていた。
割と大丈夫ではないのだが、細かいことは気にしないのがフィリピン流である。
気にしてはいけないのだ。
さて、歩いてホテルに戻ってきた辺りで突如猛烈な腹痛に襲われた。
おそらく主犯は先ほどのミートスパゲティだ。
同じものを食べたサトウくんもこれから死闘に臨む男のような険しい顔をしている。
結局3人そろってホテルで14時まで寝込むことにした。
先行きが不安でしかなかった。
ダイビングでは細かいことを気にしよう
ダイビング知識は命を救う
14時。
レンタルしたダイビングスーツを身にまとい、ボートに乗って出発する。
ぼくら3人の他にも観光客が2グループほど同行しての船旅である。
なおダイビング1回の料金は1,200ペソ。
約3000円。
日本の相場の半額~1/3という号泣するほど嬉しい価格だ。
ダイビングポイントに着くまでの間、色々と話をする。
明日飛行機に乗るカミヤマさんが
「明日は昼まで潜りまくるぜ!」
と言っていたのをぼくとサトウくんが
「何言ってるんですか死んじゃいますよ!」「体内の残留窒素が機内で気泡化して減圧症になっちゃいますよ!」
と猛反対して一人の命を救ったりした。
そう、ダイビング直後の飛行機搭乗は完全タブーなのである。
場合にもよるが、飛行機に搭乗する18~24時間前にはダイビングをしてはならない。
減圧症になってしまうからだ。
完璧な予習
さて、ダイビングポイントに到着した。
舳先近くに座っているだけでスタッフの方がフィンからレギュレーターから何から何まで装着してくれる。
さぁ行くぞと立ち上がるが、ゆらゆらと揺れる船の上なのでとても歩きづらい。
あれ? メインのセカンドステージ(口に咥えて空気を吸うアレ)が見当たらない。何処だ?
「予備のセカンドステージを使え」と指示が出たので大人しく咥える。
フィリピンでは細かいことは気にしてはならないのだ。
全て準備を完了して、船の端に立つ。
何もない空間に向かって、大きく一歩踏み出す。
ジャイアント・ストライド。
ダイビングのエントリー法の一つだ。
当然身体は海の中へと落下する。
着水時の衝撃でマスクやセカンドステージが吹き飛ばされないように顔面を両手で抑え込むのがポイントである。
これ『あまんちゅ!』で読んだところだ!
すぐに他の2人もエントリーし、ガイド+ぼくら3人で出発した。
理想と現実の距離
……が、どうも空気を吸いづらい。
抵抗があって空気が一泊遅れて入ってくる感じである。
これはマズいのではないかとガイドの人に「セカンドステージがおかしい」とハンドサインで伝えると、「メインのセカンドステージを使え」と言われる。
メインあったのか。
そりゃありますよね。
メインのセカンドステージに替えるも、やはり空気の吸いにくさは解消されない。
これは後々重大な事故に繋がりかねないのでは?
ダイビングをストップしてもらおうかとも思ったが、他の2人に迷惑をかけてしまうかもしれないし、そもそもカミヤマさんもサトウくんも機材トラブルは無さそうだし、2人と違ってダイビング初心者な自分がトラブルだと思い込んでいるだけで実際には何でもないことなのでは? と思い、吸気のしにくさをそのままにダイビングを続行した。
さて、ダイビングというと酸素ボンベを背負って足にヒレをつけて優雅に泳ぐというシーンを想像する方も多いだろう。
しかし、実際には優雅に泳ぐことはかなり難しい。
呼吸によって浮き沈みを調節し、水の抵抗がある中をフィンキックによって泳いでいくというのは想像以上の難易度だ。
ぼくは水平に泳ぐことが出来ず、常に体が45度くらいの角度で泳いでいた。
どうしても頭が上がってしまうのである。
この状態だと潜るのも前進するのも時間がかかる。
浮上することだけは容易なこのスタイルは、この時のぼくの「一刻も早く水面に出たい」というチキンっぷりをこの上なく的確に表現した泳法であった。
よく思い返したら45度どころではなくほぼ垂直状態で泳いでいたかもしれない。
あまりの遅れっぷりを見かねたガイドの人に手を引かれる形で全行程の7割を進んだ。
とても恥ずかしい。
途中、3メートルほど眼下にイワシの大群を臨んだ。
流麗かつ迫力満点で、海の中にも生命が存在するんだなと当たり前のことを強く実感した。
この光景を見ただけでも潜った甲斐はあった。
また、美麗な藻や岩やサンゴ礁、ほんの目と鼻の先をすれ違うウミガメなど、一瞬一瞬の景色が強く心に焼き付く素晴らしいダイビングとなった。
が、後半に差し掛かると寒さで体が震え始めた。
ただでさえ空気が吸いづらいのに、このうえ悪寒が激しくなったらもう手には負えない。
しばらく我慢したがどうにも危険だと思ったので、その時点でダイビングを中止させてもらった。
ゆっくりと水面に上がり、BCDに空気を入れぷかぷかと浮かびながら背泳ぎでボートを目指す。
船に上がり、バスタオルで体を包む。
寒い。
自分のせいでせっかくのダイビングを途中でストップさせてしまったことをカミヤマさんとサトウくんに謝る。
「大丈夫だよ」
カミヤマさんが言う。
なんて優しい人なんだ。
「俺の方の機材は逆に空気出すぎで困ってたからさ(笑)」
明日はシュノーケリングにしよう。
モアルボアルの夜
嵐の夕暮れ
夕方17時、ホテルで夕食を取る。
嘘かまことか「フィリピン人の調味料は”味の素”」というカミヤマさんの話を聞きつつ、確かにどことなく味の素の味がする夕食を終える。
台風が近づいているらしく、雨風が猛烈な勢いで吹き込んでくる。
ホテルはかなり開放的なつくりで、ロビーの前後には壁が無い。横に吹き抜け状態。
そのため、強風が吹くとそれなりに危険地帯と化す。
日も落ち暗くなった夜の町を見つつ、ゴオオオと吹く風を身に受けつつ強い雨が降るのを眺めるのはなかなか乙である。
玄関のドアなんて存在しないホテルでは、建物の内外を隔てるものは文字通り何もない。
ウチとソトを明確に分ける、ある意味「排他的」な日本家屋で育ってきたので、このいかにも南国らしい開放的なつくりの建物には感じ入るものがある。
しばらく嵐を眺めつつぼうっと時間を過ごした。
手持ち無沙汰が苦にならないのは初めての経験だった。
部屋に戻ると、2人が寝る態勢に入っていた。
雨がやむまでは飲みに行けそうにないので、仮眠して英気を養うとのこと。
一も二もなく賛同し、しばらく眠ることにした。
バーで感じる現在地
さて、雨も上がった20時半、ぼくら3人は連れ立って近くのバーに足を向けた。
入店してみるとビリヤード台が2つあり、カウンターではグラスを吹くバーテンダーらしき人、溢れかえる客、店内にかかるノリの良いダンスミュージック、何となく遊びなれた大人の社交場的雰囲気である。
明らかにぼくだけ場違いである。
縮こまってアルコールをいくつか注文する。
そしてビリヤードに興じる。
プレイしている際に周りの人たちから見られるので、いかに情けない所を見せないようにしようかという情けない考えで頭がいっぱいだった。
3人で話していると、現地のフィリピン人女性3人組が話しかけてきた。
ここで軽いジョークの一つでも飛ばせたら免許皆伝だが、あいにくぼくには全てのスキルが足りていなかった。
英語で話しかけられても2割程度しか聞き取れず、言いたい日本語の20分の1も英語にできない。
次第に女性3人は英語が得意なカミヤマさんとの会話にかかりっきりになっていった。
初対面にも関わらずものすごく楽しそうに英会話でコミュニケーションが取れるカミヤマさんを羨ましく思いつつ、話せないぼくは会話の邪魔をしないようにアルコールのグラスをちびちびやるのが関の山だった。
正直に言ってカミヤマさんはカッコよかった。
英語をペラペラ話せて凄まじくカッコよかった。
英語を流暢に話すため留学に来たぼくは、2週間経ってもまだまだヒヨっ子だった。
恥ずかしがって怖がって、マトモな会話ひとつロクにできない残念な人間だった。
自己嫌悪と恥ずかしさに苛まれ続ける時間が過ぎていった。
ホテルに帰り、ロビーでしばらく物思いに耽る。
開放的なその場所からは暗い夜の町が見える。先ほどまで居た、少し離れたバーから楽しげな喧騒が聞こえる。
それなりにこの2週間英語を勉強してきたつもりだが、この体たらくは何なんだろう。
確実に身につけたと胸を張って言えるのは「発音」くらい。
だが今日、「どこかの店員」でも「学校の講師」でもないフィリピン人と英会話をしてみて、一般人と英会話で雑談するということは想像を絶するほど難しいという事実に気付き、目的地と現在位置の距離の長さに愕然とした。
もっと、ちゃんと英語を勉強しなくては。
風が運ぶ遠くの嬌声に、自戒の夜は更けていった。