セブ語学留学体験記vol.5 カルチャーショックと南国のバー

フィリピンのセブに来て3日目、ようやく語学学校の寮へと入る日がきた。

「何か面白いことでも起きないかな」と階下へ向かうと、望外の出会いが待っていた。
予期せぬ出来事に心がおどる。

しかし一日の終わりに待っていたのは、テレビ画面の向こうの出来事だと思っていた「非現実」だった。

かっこいい大人と出会う

セブ3日目。
フィリピンで迎える初めての日曜日。

いよいよ入寮予定の日である。

階下のレストラン(広さ的にはカフェ)で朝食を取っていると、温和そうな50代の日本人の男性客と近い席になったので、呼吸を整えてから話しかけてみた。

スギヤマさん(仮名)と名乗られたその方は、かなりハイテクノロジーな機器を取り扱う企業に属されており、海外経験の豊富さを活かし今もここフィリピンのセブで仕事にあたっているのだという。

賑やかで騒々しい南国の日曜の朝、大通りを向こうに見据えた閑静で明るい室内で、日本のラジオをかけながらノートPCを叩き「まぁこのカフェテリアがぼくの事務所みたいなものだね(笑)」とのんびりうそぶく姿はまさに人生の勝ち組のそれであった。

めちゃくちゃカッコよかった

余裕あふれる生活っぷりに大いに感銘を受け、気づけば2時間ほど会話を楽しませていただいていた。

「後で飲みに行きましょう」と誘われ、現地で会った人と仲良くなり飲みに行くという人生で一度は体験したいカッコいい大人のシチュエーションが実現し、「やべえ、俺ワールドワイドだわ」とかよく分からないことをつぶやきつつ荷物をまとめ一旦ホテルを後にした。

向かう先は語学学校の寮。
ようやくセブ滞在本来の目的地に向かうことになる。

フィリピンでタクシーに乗る時のコツ

ところで、フィリピンではタクシーの運転手に「○○へ行ってくれ」と言っても通じないことが多い。

有名な繁華街や観光スポットならさすがに大丈夫だが、乱立する語学学校の寮の場所など彼らにとっては優先度が低いらしく、ドヤ顔で「××ビルへ行ってくれ」とか言ってもほぼ間違いなく「それどこ?」と言われ撃沈する

ぼくが目指すべき語学学校NILSの学生寮は「JYクラウンパレス」という建物名なのだが、セブ滞在の1ヶ月でここを知っている運転手には一度も出会わなかった。

さて、場所の名前が通じないならどのようにタクシードライバーに目的地を伝えればいいのだろうか。

地図を持参する。
これは効果的だ。
というか絶対に持っていこう。
運転手に英語表記の地図を見せ「ここ! ここ!」と必死で伝えればたぶん何とかなる。

しかしこれは確実な手段ではない。
ぼくは英語表記の地図を持っていき、ドライバーにそれを見せ「ここに行きたい」と伝えたがそれでも目的地は伝わらなかった
なぜだ。

ここで一つ耳寄りな情報がある。

セブの住民はほとんどがカトリック教徒であり、タクシードライバーもほぼ全員カトリックだ。
誰しもバックミラー付近に十字架をかけている。

ゆえに、セブには教会がとても多い

敬虔なカトリック教徒でもあるドライバーは「○○教会」と伝えればほぼ確実にその場所が分かる。

また、セブ市内にはショッピングモールも多い。
ドライバーにとっては身近かつよく告げられる行き先であるため、モールの場所もほぼ完璧に把握されている。

そう。つまり行きたい場所があったら、その近くにある教会モールの名前を頭に叩き込んでおけば目的地に辿りつく公算は飛躍的に高くなるのだ。

実際ぼくは半泣きになりながら寮の近くにあるモールの名前が通じたことに快哉を叫び、最寄りのモールで下ろしてもらった。

これが上級者になると「そこまっすぐ行って、そう、であのガソリンスタンドを曲がってしばらく行って、あ、ここで止めてください」とか逐次指示を出せるようになるのだが、ぼくがそれを体得するのは数週間後の話になる。

やっと語学学校の学生寮に到着

モールから寮まではそこそこ距離があるのでガラガラとキャリーバッグを引きずっていくことになるのだが、まぁとにかく目的地の近くまでは来れてよかった。

そしてようやく辿りついたNILS学生寮。
ガードマンの笑顔がまぶしい。

受付で名前を告げ、明日の入学オリエンテーションのことを説明され、部屋に案内される。

ぼくが申し込んだのは3人部屋である。

なぜ3人部屋を選んだのか。

まず圧倒的に宿泊費が安かったから。
そして「同じ部屋で仲間と暮らすのって青春だよなー」と強く思ったからである。

この3人部屋での1ヶ月で色々なことが起こることになるが、そのどれも1人部屋では起きえなかったことだった。
語学留学に行かれる方はぜひ2人部屋・3人部屋を選ぶことをオススメする
1人部屋より確実に楽しい寮生活になることを約束する。

ところで、語学学校の授業は通常月~金曜日間でのカリキュラムとなる。
NILSでも土日に授業を入れることはできるが、ほとんどの生徒は土日を観光・買い物・アクティビティに費やす。

せっかくリゾートで有名なセブに来たのだから、平日はしっかり、休日は外で思いっきり遊ぶというメリハリが大事なのだ。

そのため、週末の昼間はほとんどの生徒が外出しており、寮内はかなり閑散とした風景になる。
ぼくが初めて寮にやってきた日曜昼間はまさにそんな雰囲気で、何となく晴れた休日の静かな校舎といった風情であった。

セブ語学留学に来る人たちの特徴

割と拾く、清潔な印象の3人部屋に入ると先客がいた。

タクヤ(仮名)と名乗るその人物は大学の3年生で、法学部でありながら将来の進路には語学力を必要とするためセブに来たのだという。

何という高い志を持った人なのだろう、ぼくなんか就職難から逃げて来ただけなのにと恥ずかしくて逃げたくなったが、何とか笑顔を返せた。

もう一人の部屋の同居人フジモトさん(仮名)はその時は不在だったが、後でお会いしたところ、40代のバリバリの社会人で、セブで2週間の語学留学(会社命令)の最中であり、筋トレを欠かさず趣味が山登りとロッククライムとロードバイクというどこの運動部かというほど強靭な方だった。

様々な人が様々な理由でセブ語学留学に来るのだが、それがあらゆるバラエティに富んでいて非常に興味深い。

月並みな言い方になるが、会って話すだけで刺激的になる人々がとても多い。
それぞれ全く違う種類の経験談を語ってくれるので、話を聞いているだけで面白い。

1人部屋でも勿論そうした人と仲良くなることはできるが、やはり複数人部屋だと生活を共にするわけなので、圧倒的に話をしやすい人がいるというのは大きな利点である。

ぜひ、留学の際は2人部屋・3人部屋をオススメする。
大事なことなので2回言いました。

さて、初めて顔合わせをした後、タクヤさんは用事まで少し時間があるので近くのモールを案内しますよと言ってくれた。

寮近くのモールは、語学留学生にとっては最も頻繁に訪れる場所である。
不慣れな場所を同胞に案内してもらえることほどありがたいことはない。

喜んで頷き、寮から徒歩2分のショッピングモールへ連れ立って歩き始めた。

フィリピンの風物詩

NILS学生寮最寄りのモールは正式名を「JYモール」という。
日用雑貨や食料品を取りそろえるスーパーマーケットはもちろん、本屋・薬局・携帯電話販売店・両替所・コーヒーショップ・マクドナルド・韓国料理店・中国料理店などが並ぶ複合施設である。

モール入口では銃を持ったガードマンが存在感を醸し出している。
日本とは違う国に来たんだなと感じる瞬間だ。

ここがスーパー、あっちがレストラン、とタクヤさんの丁寧な案内を受け、一通りまわったところで昼食をとる。
その後、タクヤさんと別れ寮に帰り、スギヤマさんとの待ち合わせ場所である朝まで居たホテルに向かおうとした。

が、まさに寮を出ようとしたところで猛烈なスコールに襲われた。

セブ島では6月から12月までが雨季にあたり、一日のうちのどこかでスコールに見舞われることが多い。
しかし、大雨とはいえスコールなので大方の場合すぐに止む。

この時も「こんな激しい雨じゃとても出かけられない。どうしよう」とあたふたしていたら15分後にはカラッとした晴れ間が広がっていた。

日本の梅雨に見習わせたいものだと思いつつ、急いでタクシーをつかまえスギヤマさんとの待ち合わせ場所へ向かった。

トライシクルに初挑戦

「はは、セブはスコールが多いですからね」の一言で若造の遅刻を笑って流して下さるスギヤマさんは本当に器が大きいです。
ありがとうございました。

「じゃあこれに乗っていきますか」とスギヤマさんが指さしたのはトライシクルだった。

トライシクルといえばフィリピンではジプニーに並ぶ「庶民の足」。
しかし外国人が乗ると金銭的なトラブルが多く発生するらしく、それに乗るという発想はフィリピン渡航前からカケラも存在しなかった。

しかし、セブ歴が長いスギヤマさんと一緒である。
もう何も怖くない。

意気揚々と乗り込む。

実際に動き出してみると、なんというかサイドカーの親戚といった感じである。
運転手が横にいて、乗客の視界を遮るものは何もない。
乗りなれていないぼくにとっては、遊園地のアトラクションのようで非常に面白かった。

2分ほど走り大きな曲がり角が見えてきたかと思うとトライシクルは突如止まった。

スギヤマさんの談によると、どうやらトライシクルというものは決められた路線を走るタイプ(多くは「ある通りの端から端まで」)のものが主らしい。

目指すバーはここからすぐ近くにあるという。

正確な値段は失念してしまったが、運転手に日本円換算で10円~20円の運賃を払い、トライシクルを降りる。

何度でも言おう。フィリピンは死ぬほど物価が安い。

人生初のバー

飲めや歌えや

目的地のバーは物価が高めの店が立ち並んでいるエリアにあった。

正面がガラス張りの店内の様子は「異国のバー」といった感じで、バーテンダーがグラスをキュッキュ拭きながら「いらっしゃいませ」「ああ、いつものを頼むよ」「かしこまりました、53年のシャトー・オーブリオンですね」と天空の会話を交わし始めるような高級店ではなかったが、馴染みやすさの中にも上品な空気がほのかに香る、「隠れ家」的なバーであった。

まだ15時を回っていないというのに先客がちらほらおり、そのいずれもフィリピン系の人ではなく、ほとんどが欧米人だった。

話しかけられたらほぼ何も答えられない自信があったので、なるべく目を合わせないようにしてビールを注文した。
(注文時には緊張して”this, please”とかよく分からない英語を口走った記憶しかない)

ビールは1杯約50ペソ。
日本円にして120円。
バーで頼むビールの値段が缶ジュースレベル。
これが日本なら間違いなく7~800円は取られている。
酒飲みにとってフィリピンが天国と言われる理由がここにある。

美味くて安い酒やツマミに舌鼓を打ちつつ、スギヤマさんと色々な話をする。
その間にも日は沈みゆき、多くの来店客がドアベルを揺らしにくる。

なるべく欧米の方の注目を集めたくはなかったが、どうやら店に来ている人たちはほとんど全員がスギヤマさんの知り合いらしく、「みんなキミのことぼくの孫なのかってさ」と朗らかに笑いつつ流暢な英語で周りの客と会話するスギヤマさんを見てカッコ良すぎると思いつつ、会話の矛先がこちらに向いた時のために「今すぐ翻訳こんにゃく発明されろ!」と必死に祈っていた。

しかし無垢な願いもむなしく、ある一人の欧米人がぼくに話しかけてきた。

ネイティブの本気

ペラペラペラ。
ペラペーラペラ。

よく外国語の例として使われるこの擬音ではあるが、「ペラペラ」という音だけでも聞き取れたらそれだけで大したものである。

本気の英語話者の日常会話のスピードは、異次元の言語だった

フィリピンの人たちの英語なら2~3割くらいは聞き取れており、微かな自信が無いわけではなかった。

が、まさか同じ英語で単語一つも聞き取れない世界があるとは思わなかった。

なまじかすかな自信があっただけに、ショックは大きかった。
1か月でこの差をどれだけ埋められるというのか。
あまりの先の長さと全く返答できない申し訳なさにしばらく動けなかった。

ぼくが英語が苦手だと気付いたのだろう、彼は少し悩んで話題を変えるように、ゆっくり丁寧な発音で「今夜ここでマンチェスター・ユナイテッドの試合があるんだ。キミはサッカーが好きかい? 見に来る?」といった旨のことを言ってくれた。

今度は何とかギリギリ聞き取れたので勢い込んで”Yes!”と頷いたが、その後が続かなかった。

中学時代や高校時代、大学受験での英語勉強の記憶をいくらひっくり返してみても「雑談の仕方」という知識は存在しなかったのだ。

結局、彼に返せた言葉は”Yes”のみであった。

せっかく興味をもって話しかけてきてくれたのに、一つも会話をつなげることが出来なかった。
自分の情けなさに怒りさえ覚えた。

もっとちゃんと勉強しておけばよかった。
これほど英語が話せないことを悔いた日は、他にない。

落ち込む

借りてきたネコのように丸くなって圧倒的な敗北感に打ちひしがれていると、他の客と話し席を外していたスギヤマさんが戻ってきた。

「あの人はノルウェー人、あの人はイラン人。それぞれ訛りがあって面白いよ」と紹介して下さるのだが、こっちの英語力は訛り以前の問題である。

それでも「ああ、確かに少し発音が違う感じがしますね」とか知ったかぶって答えちゃったあの日のぼくのドヤ顔と震え声をスギヤマさんが完膚なきまでに忘却してくださっていることを切に願う。

日は暮れ始め、徐々に店内に熱気が満ちてくる。
朗らかな笑顔と笑い声と対照的に、店の外では夜のとばりが下りていく。

「1か月後には必ず、ここの人たちと雑談できるレベルに達していよう」

決意を新たにビールをあおる。
甘く優しい林檎の舌触りが気分を和らげる。
サンミゲル・アップル。
男の夜には、林檎の麦酒が相応しい。

……たぶん。

見えないガラス

衝撃

店内のディスプレイに映し出されたアメリカのバスケットボールの試合をぼんやりと眺めていると、外がすっかり暗くなっていた。

時刻は20時前。いい時間である。

「そろそろ帰ろうか」
スギヤマさんの声で、帰り支度を始める。
お勘定は1400ペソ。
たらふく飲んで食べて2人で3,000円。日本ならあまりの安さに店側の儲けが心配になるレベルである。

おみやげとして買ったチーズバーガーを手に、店の外へ出る。
すると、10人を超える大勢のフィリピン人の子供たちが大きなガラス越しにバーの中を見ていることに気付き、思わず驚きの声を上げた。

「えっ、何か始まるんですかスギヤマさん」

するとスギヤマさんは答えた。

「いや、彼らはバスケの試合を見ているんだよ」

一瞬何のことか分からなかったが、子供たちと同じように店内を見てはたと気付いた。
バーの正面は大きなガラス張りであり、テレビのディスプレイは店の正面を向いている。

そのため、店内に入らなくとも店外からガラス越しにテレビに写されているバスケの試合を見ることができるのだ。

「でも、なんでわざわざここでバスケの試合を見ているんですかね」

何のけなしにぼくは言った。
スギヤマさんは言う。

「家にテレビが無いからだよ」

思わず足が止まった。
今自分は何を聞いたのか?
なぜこの子供たちの家にも当然テレビがあると思い込んでいたのか?

前提と常識

ぼくは日本では不自由のない生活を送っていた。
家にはテレビもパソコンもゲーム機も掃除機も洗濯機もあった。
それでも最新機のスマートフォンや各種ガジェットが”足りない”と感じていた。

テレビでアフリカや東南アジアの過酷な現状をいくらでも見ていた。
家電どころか今日食べるものにも事欠く人々が世界には数億人もいるのだと知っていた。
知っていた、つもりだった。

「バーの店外からテレビを見る子供たち」という、話に聞く貧困層の実態をこの目で見ても、無意識に「なぜ家にテレビがあるはずなのに外で見るのだろう」と思い込んだ自分の不見識に恥じ入るばかりである。

なぜ、そう思い込んでしまったのだろう。

おそらく、テレビの向こうの”自分とは関係がない”出来事はすべて「非現実」として受け止めていたからだ。

今も幾人もの人が厳しい環境にさらされている、そうか大変だな、よし募金でもしよう、チャリン、それで終わりである。

まさか自分がこの目で、その過酷な実態を目にする日が来るなんて思ってもいなかった。
だから、気付けなかった。

あまりにも平和で物に満たされた日本から出たことがほとんど無かったから。
そんな発想すら出てこなかったのである。

閉ざしたドアの向こう側

「いやぁ……。それにしても、こんな大勢の子供がすぐ外にいたなんて気付きませんでした」

実際、ぼくらが座ったのはガラス窓からかなり近い席である。
少し首をひねれば表の様子が見えるし、実際ぼくも何度かガラス越しに表の景色を見ていた。
しかし、店外に出るまで子供たちの存在には全く気付かなかった。

そこで思い立った。
バスケの試合が始まったのは確か日暮れ時である。

ガラスは微量だが光を反射する。

室内と室外の明るさの差が少ない昼間は、室内からガラス越しに外の景色を見ることが出来る。

だが、夜になり室外が暗くなると、室内のガラス表面で反射する光が相対的に増加し、結果的にガラスは室内の様子を鏡のように映すようになる。

逆に、そうした状態でも室外からは店の中を見ることができる。非常に鮮明に。

明るい店の中から、暗い外の様子は見えない。
だが灯りのない外からは、中の様子がよく見える。

この事実と今起こったことに奇妙な符号を感じた。

思うに、今までの自分は店の外に出ることなくただテレビ画面を見ていただけの人生だったのではないかと。
明るい室内で、ガラスに映る自分の姿の向こうにあるものを見ないで。

ドアを開ければ現実があった。

しかし、テレビ脳に浸かっていた自分は、現実を目の当たりにしてすらその現実を見落とすところであった。

大きなショックだった。

大きなカルチャーショックだった。

二、三言葉を交わし、再会を約束してスギヤマさんと別れる。
まだ寮に直接向かえるほどタクシードライバーへの指示に慣れていないので、JYモールで降りそこから歩く。

色々と思うところが多い日だった。
想像していたよりもずっと高い壁だったネイティブレベルの英会話。
日本とは全く違う国。
想像すらできなかった様々な現実。

疲れとひどい酔いですぐさま眠りに落ちた。
とにかく、眠りたかった。