セブ語学学校生活も3週目に突入した。
暮らしにもだいぶ慣れてきた気がする。
行ってみたい場所に行ったり、好きなことをしたりと、ある程度一人で何でもできるようになってきた。
ふっ。フィリピンも大したことないな。
1か月留学の折り返し地点を過ぎて慢心に浸りまくっていた。
もちろん天罰がこの機を逃すハズはなかった。
フライトスケジュール強制変更
もうすぐ帰国
語学留学も残すところ一週間半足らず。
そろそろ帰国のことをことも考えねばならない時期だった。
最終日は何時に寮を出よう。
誰に挨拶していこう。
帰る前に何をやっておこう。
決めねばならないことはいくらでもあった。
また、本来ぼくは「就職活動に役立ちそうだから」という理由でこの語学留学に参加した。
フィリピンに来て上達した英語スキルが「発音」のみであるという現状も、残りの日数で何とか上方修正しなければならなかった。
事件が起きたのは、そんなある日のことである。
お知らせメールの衝撃
その日ぼくは8時間の授業を終え、寮へと帰るジプニーに乗り込んだ。
ジプニーは同じ時間帯で授業を終えた留学生でいっぱいであった。
コミュニケーション能力に難があるぼくは、いつも周りで(たとえ初対面の人とでも気軽に)話し合っている人たちに埋もれ、それを羨望の目で見つつも極力迷惑をかけないように呼吸音小さめに存在を殺していた。
と、さきほど受信していたメールに気がついた。
帰国時に利用する格安航空会社(LCC)であるCebu pacificからのお知らせのようである。
題名は”Schedule Change”とある。
全文英語だが、それほど難しい記述ではない。
早速読んでみた。
以下は抜粋である。
「飛行機の状況が変わったので、フライトスケジュールが変更されました。
あなたのフライトチケットは、あなたの予約していた飛行機の一つ後ろの便に振り替えられました。
ご迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします。
ご了承いただけるなら下のAccept(了承)ボタンをクリックしてください。
なお、この振り替えにご不満があり別の便に振り替えたいという場合は、下記の番号までご連絡ください」
ってオイイイイイ!
え? こんなに簡単に飛行機って違う便に振り替えられてしまうものなの?
しかも「飛行の状況が変わったから」って一体何なんだ。
実際に飛ぶのは10日も先の話である。
後から知ったことだが、LCCでは急なフライトスケジュールの変更はよくあることらしい。
が、この時はそれどころではなかった。
時間変更、帰国不可能
何よりもまずいのは、このまま一つ後ろの便に振り替えられたら帰れなくなるということだった。
今でこそcebu pacific(セブ・パシフィック)は日本各地とセブを結んだ直行便がバンバン飛んでいるが、当時はセブ-大阪便くらいしか存在しなかった。
また、セブ・パシフィックはどちらかというとフィリピン国内線として威力を発揮する。
そのためぼくは来た時と逆のルートを辿り、セブ・パシフィックでまずセブからマニラに飛び、マニラからJetstar(ジェットスター)という別のLCCに乗って日本に帰るという旅程を描いていた。
当然、マニラ空港では飛行機の「乗り換え」が必要になる。
そして、このままセブ・パシフィックが一つ後ろの便にずれてしまうと、時間的にジェットスターの飛行機に乗れなくなることになってしまう。
つまり、セブ・パシフィックの便は本来の便よりも早い時間帯の便に振り替えねばならない。
スピークイングリッシュ
そしてここが一番の難所なのだが、「この振り替えにご不満があり別の便に振り替えたいという場合は、下記の番号までご連絡ください」という注意書きのとおり、希望通りの振り替えをしたければ英語で電話をするしかない。
今までセブで店員・英語講師・一般人と会話をしてきた。
いずれの場合でも目の前に相手がいた。
英語が分からなかったら聞き返せばいいし、そもそもあまり分からなくてもノリと勢いがあればあまり困らなかった。
しかし今回はそういう訳にはいかない。
聞き取れないところがあってはならないし、理解できないところがあってはならないのだ。
おまけに相手は目の前にいない。
受話器から聞こえる音声だけが全てである。
この時点で、ぼくがこの留学で向上したと胸を張って言えるスキルは「発音」のみである。
高度なリスニングは相変わらず大の苦手であった。
そんなぼくが電話のオペレーター相手に複雑なリスケジュール希望を伝えられるのだろうか出来るわけがない。
メールを読み終わった時は茫然自失の体であった。
完全に記憶にはないのだが何やら奇妙なうめき声を漏らしたらしく、心配した隣の人が話しかけてきてくれた。
なりふり構っていられる状況ではないので、これ幸いとばかりに周りの人に助言を求めまくった。
結局は何とか頑張って電話してみるしかないという結論に落ち着いたのだが、最初に話しかけてきてくれた人であるコウノくん(仮名)とはそれがきっかけで友人になり、一緒に色々セブを周って遊びに行く仲になった。
何が幸いするか分からないものである。
携帯電話を買いに行こう
さて、とにかく一刻も早く電話をしなければならない。
日本から持参したスマートフォンで電話を掛けると国際電話扱いになり、非常に高額な通話料金になってしまう。
現地で電話をするなら、現地のプリペイド携帯を購入するのが一番安くつく。
というわけで早速最寄りのショッピングモールへと足を向ける。
カジノで数千万円をすった直後のように気だるげな雰囲気の店員がいる携帯電話ショップに入り、700ペソ分のプリペイド携帯と300ペソのプリペイドカードと40ペソ分のSIMカードを購入する。
ちなみにSAMSUNG(サムスン)製である。
完全に余談になるが、フィリピンではサムスン製の電気機器がものすごく多い。
現地の人の家にあるテレビや空港内のディスプレイはほぼ確実にサムスン製であるし、電気店を覗いてみるとそれに加えLGなどの製品も多い。
なおAppleのiPhoneはステータスのような存在で、若い世代の人は誰しもがそれを求めるということだった。
海外市場における日本製品の復活を願いつつ、携帯ショップを後にする。
一番安いプリペイドカードを買ったので、通話できる時間は最大30分。
それを超えると新たなプリペイドカードを購入するまで通話は不可能になる。
セブに来てからというもの予定外の出費が重なり、この時点でかなりカツカツであった。
そのうえ今回のプリペイド携帯一式に費用が割かれので、相当に節約しなければ出国料金も払えなくなるという極めて悲惨な経済状況であった。
失敗は許されない。この30分で決めるしかない。
誰もいない部屋で、携帯のプッシュ音を静かに連ねていった。
電話番号の罠
(+0123)456-78910。
この番号は仮のものだが、このような形式でメールに記されていた4桁+3桁+4桁の番号をプッシュする。
胸の鼓動が収まらない。
英語で電話なんか本当にできるのか。
ただただ不安に押しつぶされそうな一瞬が過ぎ、受話器からメッセージが聞こえた。
「ハ、ハロー! マイネームイズ……」
震え声で話し始めたが、向こうの声は待ってなどくれない。ペラペラとマシンガンのような英語の音声が耳朶を打つ。
「プリーズ、プリーズ スピーク スローリィ!」
半泣きで「ゆっくり喋ってくれ」と懇願する。
しかし聞いてなどくれない。
もうダメだ。やはりぼくには無理だったんだ。
あきらめ始めた頃、途端に通話が終わった。
ん?
何だ? 何もしていないぞ。
不思議に思い、もう一度かけてみる。
やはり初っ端から英語のマシンガントーク。
そして、いきなり通話が終わる。
何かがおかしい。
もう一度かけてみる。
先程までの英語と全く同じような英語が流れ、突如切れる。
これはもしかして自動音声なのでは?
もう一度、二度と聞いてみる。
それを繰り返し、どうやらこのメッセージは「おかけになった電話番号は使われておりません」ということを言っているものらしいということが何となく分かった。
ような気がした。
どっと肩の力が抜けるが、しかしよく考えてみるとおかしい。
メールに書いてあった電話番号は(+0123)456-78910。
きちんと0123 456 78910と打って何度も電話しているのに、番号が間違っているとお叱りを受けるのは何故だろう。
何だ。
一体何が間違っているんだ?
その後、何回も同じことを繰り返すもやはり上手くいかない。
こうしている間にも通話時間がかさんでいく。
これ以上お金は使えない。
だが何が間違っているのかが全く分からない。
どうしよう。
十何回目かのかけ直しが終わったところで、メールに書いてある電話番号をよく見てみる。
(+0123)456-78910
(+0123)456-78910
……もしかして、先頭に+を付けねばならないのでは?
そんな馬鹿なと思った。
しかし、携帯電話の「0」の部分に小さく「+」も併記されていることが何となく気になったのだ。
というか、もうそれくらいしか思いつかない。
しかし「+」は「0」の部分に併記されている。
「+」を押そうとすれば当然「0」と入力されてしまう。
どうすればいいんだと頭をシャカシャカやりながら試行錯誤してみると、「0」を長押しすれば「+」が入力されるという鬼畜仕様に偶然気がついた。
これスマホ世代以降の子は絶対分からないよなと思いつつ説明書をきちんと読まなかった己の不明を恥じ、ようやくオペレーターとの最初の会話にこぎつけた。
携帯電話の罠
さて、幾多の艱難辛苦を乗り越えようやくオペレーターと会話を開始した。
もちろん相手が何を言っているのかはサッパリ分からない。
繰り返す、何を言っているのかサッパリ分からない。
「私の名前は○○です」
「私は英語が苦手です」
「ゆっくり話して下さい」
と、とりあえずの自己紹介をすませ、じっくりと相手の英語に耳を傾ける。
……が、やはり1ミリたりとも聞き取れない。
実はこのプリペイド携帯、一番安い物を買ったせいか音質がかなり悪く、相手の声がノイズ交じりになり物凄く聞き取りづらかった。
苦手とは言えそれなりに英語のリスニングを勉強してきたぼくでも「おそらく英語のようなものを話している」という事がうっすら分かるレベルであった。
ヤバい。
これは本当にシャレにならない。
“I’m sorry”(すみません)と”Just a while, please”(ちょっと待ってください)を3秒おきに連呼しつつ、小声で「ヤバい、ヤバいよこれヤバい。え何聞こえないどうしよう」と呟き情けない顔で部屋をウロウロしまくる男の姿がそこにあった。
というか、ぼくだった。
途中から相手の声を聴くのを完全に諦めたぼくは、大声で自分の要望のみを伝えるという荒業に出た。
「ぼくが乗る予定の便は○○です!」
「だけどそれは困ります!」
「××便に変更してください!」
と、あらかじめネットで調べておいた希望の便名を力の限り叫ぶ。
4回ほど繰り返したところで、何となくこちらの要望が伝わったような気がした。
「かしこまりました。××便ですね?」
「はい! ……あの、○時○分の××便ですよね?」
「はい、××便で承りました」
「はい! ……あの、○時○分の××便ですよね?」
「はい、××便で承りました」
「はい! ……あの、○時○分の××便ですよね?」
と不安になって同じやり取りをこれまた数回繰り返した。
相手のオペレーターの方にはとても迷惑なことだっただろう。
すごくごめんなさい。
「もはや間違えようがない」というレベルで便の変更が上手くいったことを確信したぼくは、やっと通話を終えた。
通話時間は20分。
なかなか危ないところであった。
コネクト
深く息を吐く。
ようやく肩の荷が降りた。
ぼくにとっては何よりも難しい大仕事だった。
解放感と達成感に包まれる。
ほっとしたら空腹であったことに気付いた。
かなり時間が経っている。
先ほど仲よくなったコウノくんを誘い、寮の1階で夕食をとることにする。
今夜のメニューはカレー。
NILS寮の夕食で一番美味しい料理だ。
「英語で電話をして飛行機の予約を振り替えた」というぼくからしたら大武勇伝になる偉業を達成した後の飯ほど美味いものはない。
農業を学ぶため、1年間農村ボランティアに行ったり農業の最新技術を扱う企業に足を運んだりと充実した大学生活を送っているコウノくんの話を聞いたりしながら、楽しい夜は更けていく。
途中で「将来の夢」的な話になり、これは酒を飲みながら話そうという流れで近くのコンビニに行きビールを買い込み、寮の食堂で希望の未来を酒の肴に酒宴と洒落込む。
おおいに楽しい時間となった。
これもセブ・パシフィックの急なフライトスケジュールの変更がなければあり得なかった出会いである。
何が幸いするか、本当に分からないものだ。
ちなみに彼とはこの日の後に色々な場所に出かけ、ぼくの人生観に影響を与える様々なことをもたらしてくれた。
無意識下で奇妙なうめき声を上げるような自分の哀れな人間性を、この日だけは褒めてあげたい気分になった。